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前田利家 槍の又左

demeburogu

前田利家という武将をご存知でしょうか?

「加賀百万石(かがひゃくまんごく)」の礎を築いた、戦国時代きってのサクセスストーリーの持ち主です。

彼は単なる「強い武将」ではありませんでした。若い頃はド派手なファッションで暴れまわるヤンチャ者、大人になってからはそろばんを片手に経済を回すしっかり者、そして妻・まつと共に歩んだ愛妻家

知れば知るほど人間味あふれる、魅力的な人物なのです。

今回は、歴史初心者の方でも楽しく読めるように、前田利家の生涯とその素顔を、たっぷりとご紹介していきます!

はじめに:なぜ前田利家はすごいのか?

戦国時代の武将といえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の「三英傑」が有名ですよね。でも、この三人と深く関わり、彼らから頼りにされ、時には恐れられた男がいました。それが前田利家です。

彼は、秀吉の親友であり、信長の親衛隊長であり、家康が「あいつが生きてるうちは勝手なマネはできない」と恐れた人物。

この話は前田利家という男がすごいという思いとかっこいいと思うところです。

武勇に優れ、経済感覚も抜群。そして何より「律儀(りちぎ)」な性格で多くの人に愛されました。

さあ、そんな利家の人生を一緒に紐解いていきましょう。

1. プロフィール:利家の基本データ

まずは、利家の基本的なスペックからチェックしていきましょう。今の時代にいたら、間違いなくモデル兼トップアスリートです!

生まれた場所:尾張国(現在の愛知県名古屋市中川区あたり)。前田城(荒子城)という場所で生まれました。

生まれた西暦:天文7年(1538年)。一説には天文6年とも言われます。

幼少期の名:犬千代(いぬちよ)。なんだか可愛らしい名前です。

通称:孫四郎、又左衛門(またざえもん)。ここから「槍の又左(やりのまたざ)」というあだ名がつきました。

身長・体重:ここがすごいんです!当時の男性の平均身長が157cmくらいだったのに対し、利家は6尺(約182cm)もあったと言われています!体重は記録にありませんが、槍を振り回す筋肉隆々の体型だったとすると、80kg前後はあったのではないでしょうか。今のプロ野球選手並みの体格です。

2. 性格と若き日のエピソード:「かぶき者」から「律儀者」へ

利家の性格は、人生の前半と後半でガラリと変わります。

若い頃:派手好きの「かぶき者」

若い頃の利家は、とにかく派手!

女性用の着物を羽織ったり、動物の毛皮を身につけたりして、腰には長ーい刀やキセルをぶら下げる。いわゆる「かぶき者(当時のヤンキーやパンクファッションのようなもの)」でした。

血気盛んで、気に入らないことがあるとすぐに喧嘩をする、まさに「触るものみな傷つける」ような性格。

有名なエピソード:信長の茶坊主を斬殺!

利家の若さゆえの失敗談として有名なのが「笄(こうがい)斬り事件」です。

信長に仕えていた頃、利家が大切にしていた「笄(刀の装飾品兼、耳かきのような道具)」を、信長のお気に入りの茶坊主・拾阿弥(じゅうあみ)に盗まれたり、侮辱されたりしました。

信長からは「喧嘩はするなよ」と言われていたのですが、ブチ切れた利家は、なんと信長の目の前で拾阿弥を斬り殺してしまいます。

当然、信長は激怒。「出て行け!」と追放処分(出禁)を食らってしまいました。これが彼を大きく成長させるきっかけになります。

大人になってから:そろばんが得意な「律儀者」

追放され、浪人として苦労した利家は、お金の大切さと人の情けを痛感します。

復帰後は、非常に真面目で几帳面な性格になりました。

特に有名なのが「算盤(そろばん)」です。

戦国武将には珍しく、自分でそろばんを弾いて領国の財政管理をしていました。

「お金がないと、良い武具も買えないし、家来に十分なご飯も食べさせられない。だからケチなんじゃなくて、大切に使っているんだ」という考え方です。

これを「算盤の勇者」なんて呼ぶ人もいます。

3. 仕事とキャリア:仕えた主君と出世街道

利家は典型的なサラリーマン武将としてスタートし、最後は大重役まで登り詰めました。

織田信長:

最初のボスです。赤母衣衆(あかほろしゅう)という、信長直属の精鋭部隊(SP兼エリート集団)の筆頭として活躍しました。信長からは「又左(またざ)」と呼ばれ、厳しくも可愛がられました。追放された時も、勝手に戦に参加して手柄を立て、なんとか許してもらいました。

豊臣秀吉:

信長の死後、天下人となった秀吉。実は利家と秀吉は、若い頃からの親友(マブダチ)でした。家の隣に住んでいたこともあり、夫婦ぐるみで仲が良かったのです。

「天下は秀吉、家のことは利家に任せる」と言われるほど、秀吉政権のNo.2(五大老の筆頭)として支えました。

4. 戦と武勇伝:「槍の又左」の実力

利家は戦場では鬼のような強さを発揮しました。

得意な武器:

なんといっても槍(やり)です。それも普通の槍ではなく、三間半(約6.3メートル)もの長さがあるド派手な槍を愛用していました。

これに派手な装飾をして振り回す姿から「槍の又左(やりのまたざ)」**という異名がつきました。

また、弓や鉄砲の扱いにも長けていました。

有名な戦・参加した戦:

桶狭間の戦い(1560年):信長が今川義元を倒した戦い。実はこの時、利家はまだ「クビ(追放中)」の状態でした。でも「手柄を立てれば戻れる!」と勝手に参戦し、敵の首を取ってきました(最初は無視されましたが、その後の戦いでさらに首を取り、帰参が叶いました)。

長篠の戦い(1575年):鉄砲隊の指揮官の一人として活躍。

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い(1583年):運命の分かれ道。柴田勝家(信長の重臣で利家の先輩)と、羽柴秀吉(親友)が戦った一戦。利家は板挟みになり苦悩しますが、最終的に戦場から離脱。これが秀吉勝利の決定打となりました。

末森城(すえもりじょう)の戦い(1584年):佐々成政(さっさなりまさ)との戦い。奥能登へ攻め込んできた佐々軍を撃退した、利家のキャリアハイとも言える防衛戦です。

城主だった城:

府中城(福井県):最初に大名として治めた城。

七尾城(石川県):能登半島を治めた時の城。

5. 恋愛・家族事情:最強の妻「まつ」との絆

前田利家を語る上で欠かせないのが、妻・まつ(芳春院)の存在です。

妻・まつ:

利家がいとこの「まつ」と結婚したのは、利家21歳、まつ12歳の時。

まつは非常に賢く、強い女性でした。利家が「お金がない!」と嘆いた時、まつがへそくりを出して助けたり、出世のために秀吉の妻(ねね)と仲良くして根回しをしたり。

利家がケチくさいことを言った時、まつが「なら、そのお金(金銀)を槍で突いて戦に行けばいいじゃないですか!」と怒って、利家を奮い立たせたというエピソードもあります。

側室と恋愛事情:

愛妻家でしたが、当時の武将らしく側室もいました(千代保など)。ただ、基本的にはまつに頭が上がらなかったようです。浮気がバレてまつに怒られるのを恐れていたという微笑ましい(?)話もあります。

子供の人数:

子宝に恵まれました。まつとの間には2男9女、側室との子を含めるともっと多く、男子利長、利政など多くの子供がいました。

6. プライベート:趣味・嗜好・教養

戦場の外での利家はどんな人だったのでしょうか?

読んでいた書物:

前田利家は特に晩年、『論語』を熱心に読み込んでいたことが記録に残っています。

加藤清正の証言によると、前田利家は晩年に儒学に志し、豊臣秀吉が亡くなった年(1598年)に加藤清正、宇喜多秀家、浅野幸長といった大名たちを招き、『論語』の中の「託孤寄命章」(泰伯第八の「六尺の孤を託し、百里の命を寄す」の章句)を講義したという記録があります。しかし、当時の清正は学問を学んでおらず、その意味を理解できなかったと伝えられています。

茶の湯:前田利家は茶の湯が得意だったのか

結論から言うと、前田利家は茶の湯に積極的に取り組み、相当な腕前を持っていましたが、茶の湯への関心を持ち始めたのは他の有力武将と比べて遅く、晩年から本格的に始まったという特徴があります。

師匠と学び

  • 前田利家は千利休織田有楽斎から茶の湯を学んだとされています
  • 師匠が天下の千利休であったこともあり、利家の茶の湯の腕前は相当なものだったと評価されています

茶の湯との関わりの時期

  • 1581年:能登一国を与えられた際に茶の湯への関心をさらに深めていきました
  • 1583年:金沢に入城後、本格的に茶の湯文化を推進しました
  • 北野大茶会や朝鮮出兵に際しても茶会に参加したり主催するなどして、茶の湯に多く触れ、理解を深めていきました

利家の人物像と茶の湯

茶器にもこだわり、共に楽しむ菓子も拘りました

若い頃は「かぶき者」として知られていましたが、後年は茶の湯や能を愛する文化人として加賀藩の基礎を築きました

戦乱の世にこそ、一瞬でも落ち着く場をと茶の湯を推奨しました

能(のう):自分で舞うのも好きでした。

好きな食べ物:

具体的な料理名はあまり残っていませんが、お酒は好きでした。

また、健康オタクな一面もあり、薬草などにも詳しかったようです。

信仰していた宗教:曹洞宗

7. 人間関係:友とライバル

尊敬していた武将:

やはり織田信長。恐怖の対象でもありましたが、自分を一人前の武将にしてくれた恩人として、生涯尊敬していました。

仲が良かった武将:

豊臣秀吉。同じ尾張出身、足軽からの叩き上げ同士、妻同士も仲良し。喧嘩もするけど一番信頼できるパートナーでした。

また、浅野長政なども親しい間柄でした。

仲が悪かった・考えが合わなかった武将:

佐々成政(さっさなりまさ):元々は信長の家臣で同僚(黒母衣衆の筆頭)でしたが、信長死後に敵対。北陸地方の覇権を争い、激しく戦いました。仲が悪いというよりは考え方の違いと思っています。

徳川家康: 仲が悪いというよりは「最大のライバル」。秀吉の死後、天下を狙う家康と、豊臣家を守ろうとする利家はバチバチの関係になるが人望がある為家康は利家が生きている間は派手に動けなかったと思っています。

8. 名言と有名な書状

利家の人柄を表す言葉を紹介します。

【名言】

「金(カネ)は、いざという時のためにある。命を懸けて戦う家臣や、国を守るために使うものだ。だから普段は節約するのだ」

これは彼の経済観念をよく表しています。ケチなのではなく、使い所を見極めていたのです。

実際、死ぬ間際には、妻のまつに「わしが死んだら、蓄えた金銀を家臣たちに分け与えよ。それで離れていく者がいればそれまでだし、残ってくれる者がいれば大切にせよ」と言い残しました。

【書状(手紙)】

利家は筆マメで、多くの手紙を残しています。

特に、戦地にいる時に妻のまつへ送った手紙などは、家族を気遣う内容が含まれており、彼の優しさが垣間見えます。

9. 最期:加賀百万石への道と辞世の句

1599年(慶長4年)、利家は大阪の自邸で病に倒れます。

見舞いに来た家康に対し、ふとんの下に抜き身の刀を隠して対面したという伝説もあります(最後まで気を抜かなかった、あるいは刺し違える覚悟だったとも)。

【辞世の句】

「散らば散れ 散らずば散らず 芳野山 よし面影は 世になくもがな」

(桜の花よ、散るなら散ってしまえ、散らないなら散らないでいい。たとえ散ってしまってこの世から私の姿が消えたとしても、美しい桜の名所である吉野山のように、私の名誉や面影は人々の心に残ってほしいものだ)

享年62(数え年)。

彼の死後、妻のまつや息子の利長が巧みに徳川家康と渡り合い、前田家は江戸時代を通じて「加賀百万石」という日本最大の藩として栄え続けました。

利家の「律儀さ」と「蓄え」が、子孫たちを救ったのです。

まとめ:前田利家から学ぶこと

いかがでしたでしょうか?

前田利家という人物は、以下のような魅力にあふれています。

失敗から学ぶ力:若い頃の追放処分をバネに、人間的に大きく成長した。

バランス感覚:武勇(槍)と経済(そろばん)の両方を極めた。

パートナーシップ:妻・まつを尊重し、夫婦二人三脚で家を大きくした。

信義を貫く心:秀吉との友情、豊臣家への忠義を最後まで守ろうとした。

派手なヒーローではないかもしれませんが、現代社会で生きる私たちにとって、最も参考になる「理想のリーダー像」や「理想の夫像」かもしれません。

もし石川県金沢市へ行く機会があれば、ぜひ金沢城や兼六園を訪れてみてください。そこには、利家とまつが築いた文化が今も息づいています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

もともと好きな戦国武将でしたが大河ドラマ利家とまつを見てもっと好きになりもっと長生きをしていれば歴史が変わっていたと思っています。

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だんまごめ
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戦国時代で英語学習
日本の戦国時代武将を海外の戦国時代好きの皆さんに紹介していくブログです。どのような人物だったのかと名言を英語で紹介していきます。 好きなことを伝えたいために英語学習もはじめています。

This blog introduces Japan’s legendary Sengoku-period warlords to history fans around the world. I share who they were, what kind of lives they lived, and present their famous quotes in English. Because I want to share what I love with people overseas, I’ve also started learning English along the way.
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